十七年神無月号

火 消 し

 

10月14日「火消し保存会」が、纏を振らしてくれて、木遣りや落語も聞かせてくれるという会が六本木であり,早速出かけてみた。当日は雨のため纏振りはできなかったが、保存会の人々から火消しの話を色々聞いた。

火事と喧嘩は江戸の華―。当時、世界屈指の大都市であった江戸は火災都市でもあった。度重なる火事に幕府は火消し組織を結成。町人らで編成された「町火消」は江戸の花形なる。当初火消し組織は「大名火消し」(大名屋敷専門)「定火消」(武家屋敷専門)「店火消し」(商店のみ)等に分かれており、庶民の長屋は火消しの対象にならなかった。特に明暦(1657年)の大火は江戸の9割を焼失。天守閣も全焼してしまった。

その時の大名火消しが機能しなかった。財産もない店子たちも火事を歓迎する風潮があった。そこで町奉行大岡越前が機動的ないろは47組を創設した。

江戸の街を47の地域に分け、地域ごとに火消しを置き、防火にあたらせたのである。それぞれの組は、い組、ろ組、は組等の名前がつけられた。ただ、ひ・へ・らは語呂が悪いので、百・千・万組に言い換えた。後に本組ができ48組になった。その後に48組を10組の大組織にまとめ、多くの火消し人足を火事場に投入できる体制にした。

ただ4番組,7番組は嫌われて、廃止、結局8組になった。

町火消は鳶人足と店人足がいたが、土木建設工事で働くことが得意で、鳶口の使い方に慣れている鳶人足が主流になった。店人足はその補佐になった。

町火消は町奉行所に支配され、大組は肝(きも)名主に管理される、各町の名主が交代に受け持つ。大組の実際支配者は、頭取でその下のいろは組を指揮したのは頭(組頭)である。手下(てか)には纏持ちそして梯子持ちがいて道具持ちとよばれた。

さらに鳶口を持つ平人(ひらびと)がいる。彼らは町から給料を受けるほか、町内の土木建築、道路修理、溝の清掃、祭礼の世話、に精を出し、報酬や手当を貰っていた。

主な消火活動は、建物の破壊であった。大刺又や鳶口を使い柱を倒し、家屋を倒壊させ延焼を抑えたのである。纏は組の放水や破壊など消防活動の目印になっていた。