十七年師走号

「江戸の治安」

 

江戸は、ほかの都市に比べても武士人口の多い城下町であった。

しかし、武士は支配階級であっても、独力で生活を営むことができない。

そこで、さまざまな町人を移住させて街を形成させた。江戸に住む町人の数が明確になるのは幕府の調査では50万2394人とある。その後は50から55万人で推移した。これだけの人数がいる都市の治安を維持していくには、現在の警察制度を推測すると、かななりの人出が必要になるはずだ。ところが、町方の治安維持にあたる武士の数は少ない。責任者というべき町奉行所は、老中支配下で南・北の2名(一時期、中町奉行所が置かれた)それに付属する与力が両奉行所に35名ずついる。

さらにその配下にいる同心が各100名ずつの200人。

実にこれだけの人数で、町方全体を支配していた事になる。町奉行所が管轄しているのは、町方の警察・司法・行政全般にわたる。南と北の奉行所は、一月交代に月番制にあたって、継続した条件については引き続き用務にあたる。これだけの人数で、江戸の治安維持が可能になるには、条件が二つある。一つは、町の自治制である。前号の「江戸の火事」に述べたが、町には町役人(ちょうやく)がおり、行政のほとんどを町政に関しては朝役人が代行している。もう一つは、非正規職員というべき、目明し(岡っ引き)の存在である。同心の支配下にある民間人で、主に刑事事件の捜査に当たった。幕末の記録では400人の親分格がおり、親分と同居する岡っ引き100人ほどいた。幕府は正式には認めていないが、実質的には必要としていた。

奉行が登場する落語は多数あり、「三方一両損」「佐々木政談」「池田大助」「大工調べ」等々ほとんど名奉行である。「小間物屋政談」は今はだれも高座にかけない。

臨時的な措置として、犯罪捜査にあたったのが「火付け盗賊改」である。

寛政年間(1788-1801)に活躍した長谷川平蔵で有名な役職で、与力10名以内、30-50名の同心を配下に持ちその名のとおり、放火犯と盗賊の追及を主な任務とした。町奉行は老中支配なのに対し、こちらは若年寄の支配下にあった。