着物というものは、人に対する思いを表すものでもありますが、近しい親子なればこそ、すれ違いが生まれることもあります。祝い事に晴れ着を着せることは、時に数年の時間をかけ、準備をしていきますが、その通過儀礼の本当の意味は何だろうと、わたしは何時も考えているような気がします。親のこころ子知らずといいますように、結局わからぬまま、彼岸に渡った私の両親。

この仕事を続けているのは、時折幻の蝶を追いかけているような気持ちになります。色々な意味でも、消えつつ有るものを追いかけているような世界で。砂時計の、砂のように流れていくとらえどころのないものを、一生懸命に形にしようとしている。そんなとき、西条八十のこの詩が浮かびます。

やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や
友人に私は何を持つて行かう。

たぶん私は懐から
蒼白め、破れた
蝶の死骸をとり出すだらう。
さうして渡しながら言ふだらう。

 一生を
子供のやうに、さみしく
これを追つてゐました、と。