紺屋こうや

江戸庶民の普段着は、藍染めの物が多かった。腹掛けや半纏などの仕事着、のれんなどは、みな藍染めだった。腹掛けは木綿で作ったもので、背中に細い布を十文字に交叉をさせて留める。前面の下部に丼を付けた。今でいえばポケットである。この腹掛けは職人が半纏の下に着た。このように藍染めをする職人が紺屋で、江戸では職人町ができた。神田紺屋町である。紺屋はもともと藍染め専門の職人のことを言ったが、後に染物屋の総称となった。一般てきには「紺屋」だが江戸庶民は「こうや」とよんだ。

「青い手を付いて三百言い述べる」「明後日はできますと青い嘘」

約束が当てにならない「紺屋のあさって」というが、藍染めが天候に左右されやすい仕事だったことから出たことわざである。川柳にはこのように、仕上がりの期日が守れず、日延べしている場面を読んだものが多い。また忙しくて自分のものができないことを「紺屋の白袴」というがもう死語になってしまったね。

藍染めに使われたのは、主に阿波徳島産の蓼藍だった。

領主の蜂須賀家政の舵取りで実りを上げ「藍王国」になった。これを扱う藍商人の繁栄の象徴として「うだつ」が上がった。出来上がった染料を蒅(すくも)といい、出荷された。紺屋の仕事場では、藍甕あいがめの中に蒅を入れ、水、石灰、麩などを加え、かきまぜながら発酵させる為、染に使えるようになるには十日間以上かかる、その間、藍液の調子を見ながら調整をしなければならず大変な作業である。

職人の手も真っ青に染まる。力も必要だから大変な重労働である。それに美しく染めるには、気持ちも平らで無ければならず、従って穏やかな人柄の人が多かったといわれている。がらっぱちには務まらない。苦労が多いが、やりがいがのある仕事で、誇りを持っていた。

落語には、「紺屋高尾」という人情噺がある。大ネタ過ぎて最近はあまり高座にかからないようだ。最近は、桂歌丸が積極的に語っているが…。無理しないでと言いたい。

古今亭では、「幾代餅」で、職業は突き米屋であり、大夫も「幾代」である。紺屋高尾大物噺を、若手に、積極的に取り組んでほしいとおもっているのだが・・・。

落語長屋かわら版  十七年  葉月号

編集人 落語長屋かわら版井戸端会議 小言幸兵衛