十八年文月号 「山王祭」 暦の上では、今年の小暑は7月8日からである。小暑とは梅雨が明けて気温が上昇することを示す節気であるが、今年は梅雨が明けると、猛暑が始った。 しかも西では、豪雨災害である。そんな時期に江戸で開催されるのが、徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)である日吉山王権現(日枝神社)の祭礼・山王祭である。 この祭りは、神田祭や深川祭(三社祭の説もあり)とともに江戸を代表する祭りに数えられるているだけでなく、京都の祇園祭や大阪の天神祭と並び日本三大祭りとして国際的な知名度を誇っているといいたいのだが、山王祭はやや劣る。 将軍家の産土神の祭礼であるので幕府からの手厚い保護を受けていた山王祭の山車や神輿は、江戸城の城内に入ることを許されていた。 このために山王祭は「天下様(将軍)が上覧される祭り」として「天下祭」という別名を持つ。祭りの目玉は、160の町に住民氏子に営まれる山車や練り物に寄る行列である。天下祭りの名に恥じぬように各町は色鮮やかな人形が鎮座した巨大が山車が準備されたが、幕府からある程度援助があっても、経済的な負担が小さいものではなかった。 さらに同じように天下祭と称された神田祭を執り行う氏子と山王神社の氏子は、当時はかなり重複していた。つまり、一年に二度の天下祭開催は、めでたいはずの祭りが庶民に大きな経済的な負担を強いることになってしまった。 このため、元和元年(1681年)以降の山王祭と神田祭は、幕府の指導により毎年交代で実施されるようになったのである。神田祭は、江戸時代は旧暦の9月15日と決まっていた。これは徳川家康が「関ケ原の戦い」で勝利した日であったが、明治25年より、台風・疫病流行の時期を避けるため、5月に変更された。」今年の山王祭は6月8日古式装束の500名が氏子町20kmを練り歩き皇居坂下門で皇室の御安泰を祈願する「神幸祭」9日上町連合が紀尾井町から日枝神社まで9基の神輿が練り歩き神社の階段を駆け上がる「宮入」10日下町連合が17基の神輿銀座を練り歩き日本橋上で神田明神の氏子たちが止める「渡御」まさに東京が江戸になった日であった。