大変不勉強でお恥ずかしい限りなのですが!喜多方市が、会津型といわれる優れた型染めの産地だということをこの度はじめて知りました。

伊勢型、京都、江戸などに並んで、会津型は東北一円の染め屋に販売されていたそうです。そういえば、八重の桜でも、子供時代の八重さんが、愛らしい型染めの晴れ着を着てお殿様の到着を待っていました。木登りをして着物を破いてしまうシーンだったと思います。

あれかしら?などと考えるのも楽しいですね。(ちょっとうろ覚えです。)

さて、この型染め、江戸時代から、昭和の初期まで小野寺家5代に渡って製作販売されていたそうですが、やがて、最盛期を過ぎ、次第に染め屋も減少し、1935年に幕を閉じました。その後、会津型は、小野寺家の蔵で眠り続けます。やっと、陽の目を見るのは1982年。小野寺家6代目当主のご主人が、型紙を喜多方市に寄贈したことから、その存在を知られるようになりました。その数3万7000台だそうで!!数もさることながら、デザイン性の高さ、型彫り師の緻密な技術が評価されて、福島県と、喜多方市の有形民族文化財に指定されているそうです。

この型染め可愛いんですよ。見ていると、テンションが上がってしまう。そう、普段の着物が自家製の縞の木綿。晴れ着が、綺麗な色目の型染めの着物。それはそれは、心が躍るような気持ちだったのかもしれませんね。

現代は、こと細やかに決まった着物の格がありますが、私は少し不自由な感じがしています。

’自分にできる、精一杯。’ これが晴れ着だったのでは?と思えてならないのです。

その精一杯で、お殿様の行列をお迎えしたり、お正月に年神様をお迎えした・・・。

地味であること、色味のない普段の世界があるからこそ、そこにわずかに彩る華やかな世界が、際立って美しいのかもしれません。夏の夜に彩る花火のように。こころ浮き立つ思い。会津型には、そういう美しさがあるような気がしています。

(参考資料 「創作」と「芸術」の街、喜多方で生まれた型染め紙 リーフレット)

会津型2会津型

 

 

 

 

 

 

 

 

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旅行にいくと、必ず探すのがその土地で育まれた染織品で、時に家族の白い目に耐えつつ、郷土資料館などとセットで見てまわります。

今回は会津へ行きました。昨年度の大河ドラマ八重の桜では、会津木綿が、生活に中に欠かせないものとして、描かれていました。糸取り、糸ぞめ、機織、裁縫、女性にとって大切な仕事として。戊辰戦争後には、生活の糧を得るために織りあがった反物を売り歩くシーンも出てきます。

江戸時代の初期、伊予松山藩主である加藤嘉明が前領地から織氏を招いて技術を伝えてのが其の始まりとされています。その後、初代会津藩主保科正之が綿花の栽培を会津で奨励したことにより定着しました。ハタオリは農民だけでなく、藩士妻女の内職としても、行われ会津藩の保護政策のもとで、次第に発達しました。厚地で丈夫、肌合いがよく、保湿性、吸汗性にも優れた会津木綿は、寒暖差の激しい会津風土の中で人々の生活に欠かせないものとなりました。

 化学染料と機械織が導入されてからも、安価で丈夫な会津木綿は大変重宝され、一時期、30件の織元があったようですが、今は2件を残すのみ。着物や小物のみならず、洋服や、文房具などにもアレンジされ、今に会津木綿の素朴な魅力を伝え続けています。

衣の暮らしと女性(歴春ふくしま文庫)によると、戦前までは、衣料品を自家製で賄うことはごく当たり前に行われていたそうです。糸をつむぎ、染色をし、織り・・・この布に仕上がるまでの大変な労苦があるために、一反の着物を全くあまらせること無く、大切に仕立てたのでしょう。繕いなおし、子供たちへ仕立て直し、半纏や、オムツや、雑巾など、完全に使い果たす。作った人々と同じように、素朴で力強い布は、跡形も無く消えていったのかもしれません。小さな布の切れ端を、縞帳に残して。最も、素朴な柄ともいえる縞は、限りある反物の幅、限りある色彩の中でも、千にも万にも変化していきます。たゆまなく、母から子へと引き継がれてきた技術や心があるからこそ、着物は美しいのかもしれません。それを私たちは享受している。ありがたいことだと思います。

参考資料  歴春ふくしま文庫 衣の暮らしと女性

        「400年の伝統を持つ縞柄の伝統美」 (リーフレット)

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