十八年霜月号

 

「酉の市」

 

11月1日の山手線めぐりの時、雑司ヶ谷の大鳥神社で「酉の市」が開かれていて、お客に「熊手」飾りつけを行っていた。売買が成立し、そこにいる人たち全員で「手締め」した。楽しい風景であった。熊手を買うときは、必ず値切ることになっており、買い手は、値切った分を祝儀としてあげるるのだが・・。

毎年、11月の酉の日に、大鳥神社で開催されるのが「酉の市」である。

開運招福・商売茂盛の祭礼を「おおとりさま」と呼び、この日は大鳥神社の境内に多くの市が並ぶ。多くの露店では、威勢よく手締めをして「縁起熊手」を売る祭りの賑わいは、江戸から続く年末の風物詩といえるだろう。

酉の日は12日おきにあり、月の最初の酉の日を「一の酉」二回目を「二の酉」年によっては「三の酉」もあり、年は三の酉まである。「三の酉」まである年は火事が多いといわれているが、これは一月に三回も祭礼が立つことで浮かれることが無いように、という戒めが込められているといわれている。

江戸時代には、武蔵国南足立郡花俣村(現在の足立区花畑)にある大鳥神社が栄え「本酉」と言われたこの神社の大鳥大明神を産土神とする近隣の収穫祭が、江戸酉の市の発祥とされている。また、最も賑わう酉の市は、江戸後期からから盛んになった浅草の長国寺で行われた酉の市である。

本酉又は大酉と呼ばれた花俣の酉の市に対して「新酉」と呼ばれる。

現在では、長国寺と大鳥神社が隣り合わせで市を開いており、神社と寺と両方の「お酉さま」に利益をお願いできることから、「神と仏の酉の市」と言われ、多くの参拝者が訪れている。また酉の市では、大鳥大明神の東隣は吉原があり、通常開けない大門以外の門を開き客を呼び入れたといわれている。市を理由に吉原に繰り込んだ人も多かった。酉の市の帰りに吉原により、富岡八幡宮のお酉さまの後は深川仲町の岡場所へ。

これを廓詣でと呼び、女房どもに嫌味を言われても男たちは出向いていったのである。

ڍׂ͂

長いこと仕事をしてきていますが、呉服やさんにいたり、着付け学院にいたり、写真館にいたりしたのですが、今は完全にフリーで仕事をしています。呼ばれればあるけど、お呼びがかからなければないよ。という。(“⌒∇⌒”)((⛄))

このフリーってのは、不安要素がありますが、ちゃんと、自分で仕事をしていこうと決めてから、依頼が途切れることもなく。幅広くさせていただいていること、有りがたいと思っています。

ただ、こうやって仕事をしていると、神経を張り巡らせているため、繁忙期を過ぎたあたりから。がくりと、疲れが出たりします。

そんなとき、原点にたち戻り、余計なことで大変なことになっていないか、果たしてやるべきか否か考える必要があるように思います。

鎌倉着物倶楽部という小さなサークルこそが、私の原点であり、城であると言ってくださったかたがいます。確かに前身は、こちらにくるまえ、10年以上遡り、身近な人に頼まれた着付け教室でありました。今はサークルとしているのは、着付けに果たして正解はあるのか?という、根本的な疑問が、教室という体をとらせていません。[私が正解である]という態度を、やればやるほど、取れなくなってきているのです。自分の正解を押し付けるようなことを、避けてきたのです。

無論着物を、着る際には、来ていく場所や、目的に応じたマナーが存在します。それは、お茶席や、式典、ゲストをお迎えするか、ゲストなのかによって、選び方が異なります。なかなかそれが大変なことなので、鎌倉着物倶楽部のお出かけは、特に何の制約を設けず。好きなものを着てください。なんか、不安なら聞いてね。とだけ、お伝えしています。

古い着物でも、その人にとって宝物の場合がある。価値を他人は図ることはできない。昔着付け学院に居たときに、生徒さんの着物を、[古い着物]と、バカにしていた先生がいて、許しがたく感じたことを覚えています。着物は金持ちの道楽ではなく、皆がきていたのだ。晴れ着は振り袖ではない場合もあっただろう。若いときの綺麗な着物ものを、縫い直して、晴れ着に仕立てた場合もあったろう。そう思い。私は娘の七五三の着物を、大人の小紋から作り替えました。その着物はいろんな方に愛され、着ていただいています。

小さな城ではありますが、支えであり、守らなければなりません。今一度、私の方針をお伝えし、理解を求める局面に来ていると、考えています。

 

 

 

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