以前相談を受けた時から、数年がたち、お嬢様も節目を迎えられるため、着付けの事前打ち合わせがてら、タンスの中身を拝見しました。お母様のお着物を沢山頂き、更に義理のお母様のお着物も増えたそうで、次々と現れる着物に胸がドキドキしました。着物と帯を合わせていき、今回は小物も合わせてみました。着物と帯の取り合わせは悩むところですが、着物の上にのせていくと、答えが出てきます。帯の柄が強すぎて、着物の柄が沈んで見えてしまうとか。着物と帯と柄が主張しあいすぎで、ちょっとうるさいとか。こういうと、難しいような気がしますが、双方柄も色も、しっかりと引き立てあうものが必ずあるのです。無地であっても、それは有りまして、家紋があるかないか、染め抜きか、縫い紋かによって、影紋か、日向紋かによって、着物の表情は変わります。染め抜き日向紋の場合、格調高い帯が映えます。不思議と、紋の種類は見る前から判る場合があり、「この着物は慶弔両方に着るために誂えたのかな。それなら、ここには、銀糸の縫い紋をいれるかな。こっちの着物の地紋の華やかさもあり、格調もたかい。私なら染め抜き紋をいれるわ。」と考えて背をみる。紋により、答え合わせをするようなものです。紋は、着物に何か特別なものを纏わせるのかもしれません。何かこうかくと、どうも凄いことのような事をしているかのようですが、お客様の着物に向き合いながら、探っていくうちに、着物に教えて頂いたことばかり。誂えた人が、おられない為に、膨大なパズルのような着物と帯を前にして、途方にくれてご連絡を皆様くださるわけですが、どんな風にお召し頂く為に、ここに着物はあるのだろう。と、私はいつも考えます。具体的に着ていくシチュエーションをイメージしていくうちに、自ら考えて選んで下さるようになるんですね。どんなかただったか、何をされていたか、今、着物を持つ人がよく知っているわけですから。それと、今後自分がそれをどのようにいかしていけるか自分に向きあうお手伝いをさせていただいています。

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                     十七年師走号

「江戸の治安」

 

江戸は、ほかの都市に比べても武士人口の多い城下町であった。

しかし、武士は支配階級であっても、独力で生活を営むことができない。

そこで、さまざまな町人を移住させて街を形成させた。江戸に住む町人の数が明確になるのは幕府の調査では50万2394人とある。その後は50から55万人で推移した。これだけの人数がいる都市の治安を維持していくには、現在の警察制度を推測すると、かななりの人出が必要になるはずだ。ところが、町方の治安維持にあたる武士の数は少ない。責任者というべき町奉行所は、老中支配下で南・北の2名(一時期、中町奉行所が置かれた)それに付属する与力が両奉行所に35名ずついる。

さらにその配下にいる同心が各100名ずつの200人。

実にこれだけの人数で、町方全体を支配していた事になる。町奉行所が管轄しているのは、町方の警察・司法・行政全般にわたる。南と北の奉行所は、一月交代に月番制にあたって、継続した条件については引き続き用務にあたる。これだけの人数で、江戸の治安維持が可能になるには、条件が二つある。一つは、町の自治制である。前号の「江戸の火事」に述べたが、町には町役人(ちょうやく)がおり、行政のほとんどを町政に関しては朝役人が代行している。もう一つは、非正規職員というべき、目明し(岡っ引き)の存在である。同心の支配下にある民間人で、主に刑事事件の捜査に当たった。幕末の記録では400人の親分格がおり、親分と同居する岡っ引き100人ほどいた。幕府は正式には認めていないが、実質的には必要としていた。

奉行が登場する落語は多数あり、「三方一両損」「佐々木政談」「池田大助」「大工調べ」等々ほとんど名奉行である。「小間物屋政談」は今はだれも高座にかけない。

臨時的な措置として、犯罪捜査にあたったのが「火付け盗賊改」である。

寛政年間(1788-1801)に活躍した長谷川平蔵で有名な役職で、与力10名以内、30-50名の同心を配下に持ちその名のとおり、放火犯と盗賊の追及を主な任務とした。町奉行は老中支配なのに対し、こちらは若年寄の支配下にあった。

 

 

 

   

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